春は霞み、約束は冴え

「最悪・・・」

雲一つない晴れ渡った朝もこの時期だけは恨めしく思えてしょうがない。
朝から、鏡の中に映る自分は、目が真っ赤で、まぶたも少し腫れているし鼻水も止まらない。

「よりによって今日プレゼンなのに……」

マスクをしても隠しきれない感じがして、少しだけ憂鬱になる。
会社に着いても、できるだけ人と目を合わせないように席に座った。

「おはようございます」

後ろから声をかけられて、肩がわずかに跳ねる。

同じフロアで、たまに顔を合わせる、何度か仕事上のやり取りをして、少しだけ話すようになった後輩。特別仲がいいわけじゃない。でも、なぜか会うと少しだけ気を抜いてしまう自分がいる。

・・・たぶん、ちょっとだけ気になってる。

だからこそ、今日みたいな日は最悪だった。こんな顔、見られたくない。

「……あ、おはよ」

なるべく普通を装ったけど、
「今日、花粉やばいですよね」

一発でバレた。

「たしかにそうだけど、そんな顔に出てる?」

「でてます」

即答だった。
一瞬、恥ずかしさで逃げたくなる。

「わるかったわね、そんな顔で、ちょっと今日はひどいからさ・・・」

「いいと思いますけど」

「え?」

思わず聞き返すと、彼は少しだけ首を傾げながら答えた。

「そのままで」

「いやいやいやいや!全然よくないでしょ」

「なんでですか」

さらっと返されて、言葉に詰まる。

「だって、仕事中だし……」

「仕事ができてれば、関係ないですよ」

少しだけ笑って、

「それに」

一歩近づいてくる。

「こういう日って、逆にレアじゃないですか」

「レアって……」

「いつもちゃんとしてる先輩が、ちょっと崩れてる」

一瞬、目をまっすぐ見られる。

「俺は、好きですけど」

心臓が、一拍遅れて跳ねた。

「……それ、フォローになってないけど?」

「なってますよ」

即答。

「むしろ、今日のほうが話しかけやすいです」

「なんで?」

「隙があるから」

さらっと言って、少しだけ笑う。

距離が、近い。花粉のせいじゃない理由で、顔が熱くなる。

「……ずるい」

思わず漏れた言葉に、

「そうですか?」

少し楽しそうに返される。そのまま何事もなかったみたいに、自分の席に戻っていった。

___________________

なんとかプレゼンを終えその日の帰り。

「今日、乗り切りましたね」

エントランスで声をかけられる。

「あ……うん、なんとか」

まだ少し鼻声のまま答えると、

「いっしょに帰りませんか」

不意にそう言われて、少しだけ間が空く。

「……うん」

気づいたら、頷いていた。

駅までの道すがら、たわいもない話をした。
今日のプレゼンのこととか、社内のちょっとした噂話とか、あと、近くにできたランチの店の話とか。

「結局あそこ、並ぶ価値あるんですかね」

「いや、あれは完全に雰囲気枠ね」

そんな、どうでもいいやり取りなのに、妙に心地いい。
花粉のせいか、春の記憶はいつも少しぼんやりしている。
でも今この時間は、その“ぼんやり”の中に、ちゃんと輪郭があった。

ふと、一軒の居酒屋の前で足が止まった。
入口のガラス越しに、空瓶がきれいに並んでいる。

「……獺祭」

思わず、声に出ていた。

「え、先輩って日本酒好きでしたっけ」

「好きってほどじゃないけど……前に一回だけ飲んで」

少しだけ記憶を辿る。

「美味しかったなって」

「いいですね」

彼が、少しだけ笑う。

「獺祭って、造っているお酒が全部純米大吟醸なんですよ」

「え、そうなの?」

「はい。普通はランク分けされるんですけど、それを全部そこに振り切ってて」

ガラス越しの瓶を見ながら、さらっと続ける。

「あと同じ純米大吟醸でも“米の磨き”の違いで味も結構変わるんです。45%、39%、23%って数字が小さいほど、より華やかで繊細な味わいと香りになっていくんです」

「へえ……詳しいんだね、日本酒」

「好きなんです」

その一言に、またドキッとした。視線を少し落として話す横顔が、いつもより柔らかく見えて。
さっきまでの軽い会話とは違う、ちゃんと“好きなものを話している顔”だった。

「じゃあ」

彼が、少しだけこちらを見る。

「花粉の時期が終わったら、一緒に飲みに行きませんか。獺祭」

一瞬、時間が止まったみたいに感じた。

「うん・・・いいね」

「じゃあ、“さよなら花粉記念”ってことで」

わざとらしく彼が言う。

「なにそれ」

「いいじゃないですか今年も切り抜けたぞーって感じで」

「確かに祝ってもいいかも」

肩の力が抜けたみたいに笑いがこみあげてきた。さっきまで少しだけ残っていた緊張が、ふっとほどける。

「じゃあ、その記念日ね」

彼が軽く指で数える仕草をしながら、

「ちゃんと美味しく飲める日にしましょう」

「今だったら、その繊細な香りもちゃんとわからないものね」

少しだけ笑いながら、

「もったいないですね」

「たしかに」

つられて、薄く笑う。

「じゃあ、約束ですよ」

「うん」

小さく頷く。

春の記憶は、いつも少しぼんやりしている。
くしゃみも、かゆみも、なんとなく霞がかったまま過ぎていく季節。
でも、あの店のガラス越しに見えた瓶の並びと、“獺祭”って口にしたときの、彼の横顔だけは、やけにくっきり思い出せる。
花粉が落ち着いたら、ちゃんと香りも味もわかる状態で、どの“磨き”にするかなんて話をしながらあの名前を、もう一度一緒に口にする。

その日の一杯を呑む日はきっと、今までで一番、はっきり覚えている日になる。

獺祭

今や日本のみならず世界的にも知られる日本酒のひとつ。
「酔うため、売るための酒ではなく、味わう酒を求めて。」をコンセプトに、全量純米大吟醸で酒造りを行っている。
高精白の酒米で仕込むスタイルの先駆けとして、精米歩合23%、外側の77%を削り取った「獺祭 磨き二割三分」は、その後の高精白競争のきっかけとなった一本。

『株式会社 獺祭』ホームページ

山口県岩国市周東町獺越2167-4

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この記事を書いた人

昼はきっちり会社員、夜はこっそり(いや堂々と?)漫画家。定時ダッシュのその先で、ネームと格闘する二刀流。作画担当と原作担当は別人格……もとい別人ですが、なぜか名義は同じという世界的に有名な某漫画家スタイルで活動中。スーツの内ポケットにはいつでもペン一本。社会の荒波と締切に揉まれながら、今日も物語を量産中。

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